下総の細道(Life Is Like A Phantom)

百代の過客は月日にして行き来う年もまた旅人なり

飯田

 新盆があったので、飯田市の親戚の家に行きました。

 駒ケ岳のロープーウェイへ乗りたかったのですが、コメダのモーニングでノンビリしていたら出遅れたのと、中央高速が多治見インターに乗ってすぐ渋滞で、その後も渋滞が断続的に発生。ロープウェイは断念してお昼ご飯もかねて飯田観光をすることにしました。

 まずは飯田ICで降りて、飯田市街へ向かう途中の松川を渡ったところにある、大黒まん十を買いました。GWに来た時は、すでにお店が閉店していて買えなかったのですが、今日は出来たてを買えました。母の話では無くなり次第閉店らしいです。

 中はあんこがたっぷり入った黒糖まんじゅうです。あまり有名ではありませんが、隠れた名店です。 

 そのまま、松川沿いを遡って自分の生まれ育った所を再訪しました。昔遊んだ記憶がある祠が随分自分のイメージと違って犬小屋小程度の大きさでした。自分の記憶では人が立って入れるぐらいの記憶でしたが、母に後で聞いたところ、

「そんな大きさだわ。」

と言われました。

「お前らが祠に登って、屋根からしょんべん飛ばして近所のおじさんから怒られとったわ。」

と父が昔よく話していました。

 5歳までしか暮らさなかったのですが、子供の記憶としては車が2台ぐらい通れるはずの道は1台通れるのが精一杯ぐらいだし、車が通れるはずの道は自転車がすれ違えないぐらい狭い道でした。住んでいた家は松川から200から300mぐらい離れていたと記憶していましたが、車で通過したら50m無いぐらいの距離でした。

 その松川で5歳の子供が8歳の姉達とだけでよく遊びに行ったものです。今でもけっこう急な流れで、今考えると昔は親も緩かったなぁと思いました。それでも誰か子供が流されて死んだと言うような話も聞いたことが無かったので、昔の子供達は強くしっかりしていたのかもしれません。父からは何度も自分が泳いでいて死にそうになったとも聞いています。

 この急流で買ったばかりのケロヨンのサンダルを流してしまって、母から叱られると泣きながら帰ったことが、この間まで親戚中の語り草になっていました。

 まだ当時は河川改修が進んでいなかったので、台風が来ると上流からちょっとした物置小屋ぐらいの巨大な石が流れてきて、夜その「ゴロン、ゴロン」と言う音に怯えて寝れなかった記憶もあります。

 その後、お昼ご飯を食べに今宮半平へ五平餅を食べに行きました。

 この五平餅を予約で買いに来るだけのお客さんもいて、なかには30本も買って帰るお客さんもいました。

 五平餅ととろろ蕎麦のセットを頼みました。

 お店は割烹旅館も兼ねていて、天然温泉の日帰り入浴も可能です。

 このお店は私の父が亡くなる前に一緒に食べに来た事があったので、覚えていました。思い出のお店になってしまいました。もう12年も前の話です。

 お腹が一杯になった後は、通り掛りのドラッグストアで来る新盆の夜に備えて¥4kほど花火を買い込みました。すぐ近くに「権現さん」と呼ばれていた思い出の白山神社があったので、そちらへも足を伸ばしました。

     

 樹齢が何年にもなる大きな木がおおい茂っていました。

     

 この木が当時あったかどうかは定かではありませんが、5歳の時にこの木のある広場に、町中の子供達が1m程の木の柄のついた四角い独特の行燈を持って集まったのを今でも鮮明に記憶しています。その後、父の転職で三河に引越してしまい、祭りと言うものにちゃんと参加したのはこれが最後になりました。

 以来、祭りにちゃんと参加したい!と言う思いが強く残っていて、色々なお祭りを見るたびに心が躍るるのと、参加している地元の人達が羨ましく思えるのは、一種のトラウマでしょうか?

 保育園はこの神社の少し先のお寺の中にあった風越保育園へ通っていて、小学校もこの近くの丸山小学校へ行く予定で、下駄箱まで見に行った記憶も今でも残っています。同じ思いを息子にはさせたくないと思っていましたが、全く同じような年頃に同じように引越しをしていてすまないと思っています。

 けっこう急な階段を登ります。

 引越す前に板金屋をやっていた父が、ここの社の脇にあった小屋のトタン屋根を葺いていました。引越す前の最後の仕事で、その仕事ぶりを見た記憶が今でも鮮明に思い出すことができます。トーチランプであぶった四角く先のとがった大きな鉄の塊のハンダ小手と太いはんだ棒、板金を曲げるための各種のやっとこ。日本手ぬぐいを頭に被って梯子に登る父。高度経済成長がはじまり、まだ日本に貧しさが残っていた頃の記憶です。

     

 この後、神社のすぐ近く父方の本家に寄って挨拶をした後、上久堅の新盆へ向かいました。