下総の細道(Life Is Like A Phantom)

百代の過客は月日にして行き来う年もまた旅人なり

技術者たちの敗戦

 新幹線を開発した島秀雄の文庫本「新幹線をつくった男」の裏広告にあった「技術者たちの敗戦」を図書館で借りて読んでみました。

 ゼロ戦堀越二郎、新幹線の島英雄、造船の真藤恒、レーダ開発の緒方研二、F1の中村良夫をテーマにしています。

 ついでに中村良夫本人が執筆した「ひとりぼっちの風雲児」も読んでみました。

 全員帝大工学部出身。なんだかんだ言っても明治維新後や第二次世界大戦後を支えたのは、ちゃんとした家の優秀な技官や文官である。堀越・島・中村の3人とも東大工学部だ。生真面目なエンジニアと世界へ目を向けた人とが手を組んだ物が、戦後の日本の高度経済成長を支えたと思われる。

 戦前・戦中に発達した航空機産業が無くなって、遅れた自動車工学へ航空工学を落として込んだ結果が、今の日本の自動車産業の技術を支えたことが良くわかる。やはり自動車は遅れてきた産業であることを本書が立証していた。

 戦中の大陸弾丸列車計画がなければ現在の新幹線も成り立たなかったわけで、当時の満洲派の国際的な野心を持った十河総裁でなければ広軌の現在の新幹線も実現はしなかったであろう。

 ホンダ技研創始者本田宗一郎とF1ホンダ初代総監督の中村良夫との確執は海老沢泰久の「F1地上の夢」でも書かれていたが、「F1地上の夢」はノンフィクションと言った海老沢が中村から盗作として訴えられていたことは知らなかった。

 本田宗一郎のことを「天才エンジニア」と書いている本もあるが、ただの中卒の情熱家メカニックと私は思っていたし、中村良夫がヒラ取で終わったのも宗一郎のやっかみろだろうと推測していた。しかし、体系立った工学の知識が乏しく工学に基づいた議論ができない本田宗一郎の限界を中村良夫は痛感していたし、それに対する本田宗一郎が技術者舞台俳優でなければならなかったことへの反感があったし、それよりはF1をやりたいとまで言った情熱家・野生児としての本田宗一郎を敬愛して止まなかった中村良夫の思いが痛く伝わってきた。

 東大で航空工学を学び、中島飛行機ジェットエンジンまで設計していた中村良夫に本田宗一郎がエンジニアとして敵う訳がないし、「元飛行機会社と今でも言っている自動車会社があるのはけしからん。」と元中島飛行機富士重工を揶揄していたのも、裏返せばホンダ技研に多数採用されていた元中島飛行機のエンジニア達が優秀だったことへのやっかみだったのが本音だろうか。

 前述の「技術者たちの敗戦」に出てくるエンジニア達は会社ではあまりにも技術者善としていて会社での評価は低かったこともよくわかる。日本のエンジニアの地位が低いのは今に始まったことではないのかと。

 先日、某シミュレーション屋さんと話しをしていて、

「日本のエンジニアは工場労働者と横並びで給与体系化されてきて、賃金が低すぎるからカットアンドトライを繰り返すことが技術開発になってしまった。だからシミュレーションを使わない。欧米のエンジニアは単金も高く沢山雇えないから、開発工数を減らすためにシミュレーションを使って開発するんだ。」

と言われて、シミュレーションがなかなか導入されない日本の技術開発の事情に妙に納得してしまった。